庭園の特徴
本庭園は妙高山信仰を主題とする室町時代から続く庭園です。
岩・滝・水で構成される庭園景観は妙高山の山岳景観をイメージしたものと考えられ、礼拝の対象である妙高山が阿弥陀三尊が治める極楽浄土であることを築山に置かれた三尊石組で表しています。
庭園の正面に築かれた5メートルに及ぶ滝石組と背後にそびえる妙高山を強力に対比した景観構成は、他に類をみない優秀なものと評価されています。
宝蔵院の歴史
宝蔵院は、明治元年(1868)まで関山権現(現関山神社)の別当として広大な社領を有した天台宗寺院です。江戸時代の宝蔵院は東叡山寛永寺の直末の寺院であり、歴代の院主は本山から任命されました。
宝蔵院は、妙高山信仰を護持する祈祷寺として関山権現の祭礼や参詣登山行事をはじめ、1年を通して様々な宗教行事を行いましたが、将軍家から百石の耕地とともに妙高五山(妙高山・神奈山・茶臼岳・不動山・火打山)を拝領した領主でもあったため、役所の組織を整えて領地経営も行いました。
しかし、宝蔵院は明治元年にはじまる神仏分離政策によって廃寺となり、関山権現の祭礼のみが「関山神社大祭(通称火祭り)として氏子に引き継がれました。
庭園の復元
宝蔵院が寺坊を構えた関山は古くから山岳信仰の中心であり、室町時代には堯恵、宗祇、万里集九等が来訪しました。文明10年(1478)に関山を訪れた宗祇は、そのときの様子を「越後関の山にある坊の庭に滝おとしなどして心あるさまなれば」と記していることから、室町時代の後期には既に庭園が存在したと考えられます。
その後関山は戦国時代の戦火で大きく衰退したとされますが、江戸時代に入ると幕府や本山の支援を得て、宝蔵院が関山権現の祭礼を再興しました。宝蔵院では18世紀後半に寺坊や庭園の改修が大規模に行われており、修復整備事業ではこのときの庭園の姿を復元の対象としました。
指定の概要
- (指定名称)旧関山宝蔵院庭園
- (指定種別)国指定名勝
- (指定年月日)平成25年3月27日(文部科学省告示第40号)
- (所在地)新潟県妙高市大字関山字新林4808番2
- (指定面積)3,975.46㎡
- (土地所有関係)民有地3,975.46㎡
- (管理団体)妙高市(平成26年1月20日付け文化庁告示第2号)
文化庁の指定説明文(「保存管理計画書」より) (JPG 436KB)
平成から令和の修復整備工事
名勝指定後の平成25年度と26年度に保存管理計画を策定し、翌平成27年度から令和2年度までの6か年で修復整備工事を実施しました。
主な修復整備工事の内容
- (滝石組)石組のき損箇所を解体・復旧し、滝口を復元しました。
- (南北斜面)崩落斜面・景石・三尊石組の復旧と合わせて、石灯籠等の添景物や庭園を周遊する園路を整備しました。
- (園池)護岸石積・亀島・水門を復元しました。
- (導水路跡)護岸石積を修復し、分水桝・暗渠・開渠・集水桝等を新たに設置しました。
- (排水路跡)崩れた護岸石積を修復しました。
- (樹木伐採・切株除去)修景のために、樹木の伐採や切株の除去を行いました。
- (植栽)江戸時代の文献(宝蔵院日記)基づいて植栽を復元しました。
- (寺坊跡)敷地内の記念碑を撤去・移設し、建物跡の輪郭を縁石で表示しました。
- (便益施設)休憩のための施設として東屋とベンチを設置しました。
- (保存施設)指定標識・解説板・指定境界標を設置しました。
- (石段)全ての石を一度解体し、復旧しました。
- (石垣前面)石垣前のコンクリートブロック塀を撤去し、小段石積を整備するとともに、石段前を砂利で舗装しました。
現地の公開状況
開園期間
4月下旬から11月下旬まで(予定)。
※積雪量により前後することがありますが、4月下旬に冬囲いを外して滝水を流し始め、11月下旬に滝水を止めて再び冬囲いを行う予定です。冬期は閉園となりますのでご注意ください。
駐車場
隣接する関山神社の駐車場をご利用ください。関山神社に庭園に関する詳しい案内があります。
修復の過程を動画で紹介
旧関山宝蔵院庭園をはじめ、関山地域に存在する文化財を守る「妙高(関山)の文化財を語る会」では、修復工事の開始から完了までをまとめたビデオを制作しました。動画は、こちらからご覧になれます。
<旧関山宝蔵院庭園の修復工事>
<庭園修復工事完了を記念して行われた仮山伏の棒遣い>
<妙高山その知られざる信仰と歴史>