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妙高山と善光寺

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妙高山信仰は善光寺信仰

江戸時代が終わるまで妙高山の山頂には小さな阿弥陀堂があり、善光寺の本尊(「善光寺如来」といいます。)と同じ姿をした阿弥陀三尊が「妙高山如来」としてまつられていました。このことは、妙高山信仰の実態が阿弥陀信仰であり、その源流が善光寺にあることを物語っています。

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妙高山頂の阿弥陀堂を描いた絵図(「元禄七年裁許絵図(関山家文書)」より部分)(妙高市所蔵)

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妙高山頂の仏堂が写る昭和初期の絵葉書(妙高市所蔵)

 

善光寺を守護する信越国境の山々

妙高山(標高2454メートル)は善光寺平とも呼ばれる長野盆地の背後にそびえる信越五岳の一つで、これらの山々と善光寺の関係を示唆する資料としては、「善光寺参詣曼荼羅」(大阪府・小山善光寺所蔵)や「信濃水内郡彦神別神社遺跡之図」(長野市立博物館所蔵)などの絵画資料が伝来しています。両資料の中では、妙高山や戸隠山などが善光寺を守護する霊山のように描かれており、一体的な浄界を形成しているように見えます。

江戸時代になると、山岳信仰の拠点を成した戸隠山顕光寺(戸隠山信仰の中心寺院)や妙高山雲上寺宝蔵院(妙高山信仰の中心寺院)は、善光寺とともに、将軍家の祈祷寺であり菩提寺でもあった上野寛永寺の末寺となり、ともに将軍家や寛永寺の権威を背景として大きく発展しました。

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善光寺平と信越五岳

 

妙高山の本尊は善光寺式の阿弥陀三尊

妙高山頂にまつられていた妙高山如来の像は、善光寺の本尊の姿を模したいわゆる「善光寺式」の阿弥陀三尊像でした。

中尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代後期、両脇の観音菩薩像と勢至菩薩像は室町時代後期から江戸時代前期の作と推測され、両脇侍像は当初からのものではなく、後世に補われたものと考えられます。この三尊像には、実際の制作年代とは別に、木曽義仲が戦勝祈願のために妙高山頂に奉納した念持仏とする伝説があり、江戸時代には妙高山にゆかりのある人物として、木曽義仲の名前が広く知られていました。

妙高山如来とされた阿弥陀三尊像は、明治時代に始まる神仏分離政策によって妙高山から取り払われ、現在は関山神社の隣に新たに建立された妙高堂に安置されています。

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妙高山如来とされた阿弥陀三尊像(関山神社所蔵)

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阿弥陀三尊像が安置されている妙高堂

 

妙高山頂で阿弥陀三尊と結縁する

妙高山如来(阿弥陀三尊)がまつられていた妙高山頂は、江戸時代の人々からは阿弥陀如来が治める極楽浄土と認識されていました。そのため、妙高山信仰を護持する宝蔵院では、阿弥陀三尊と結縁することができる機会として、一年に一度、旧暦の6月23日に登拝行事(参詣登山)が行われていました。

この登拝行事のときに参加者に配布されていた妙高山如来の御影札(守り札)と善光寺如来の御影札を比較すると、妙高山如来と善光寺如来が同一視されていたことがよくわかります。妙高山如来の御影札に描かれている「山」の文字は、5月下旬から6月上旬になると妙高山の山頂付近に現われる残雪の形で、阿弥陀三尊の存在を示す象徴として広く知られていました。

宝蔵院による当時の妙高山登拝行事は、地獄に見立てられた山腹に建つ御堂を巡りながら罪や穢れを祓い、極楽浄土に見立てられた山頂で阿弥陀如来と結縁し、新しい自分に生まれ変わるというストーリーで行われていました。

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妙高山如来の御影札(寛保3年は1743年)(関山神社所蔵)

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妙高山に現れる「山」の字の雪形

 

善光寺と妙高山に伝わった百済仏

江戸時代に全国に広まった善光寺如来の縁起(由緒)では、善光寺の秘仏本尊は、わが国に最初に伝えられた「三国伝来の百済仏」として語られています。百済とは6世紀に朝鮮半島南部に実在した国で、わが国に仏教を伝えた国として『日本書紀』などに登場します。この縁起の中では、廃仏派によって難波の堀に廃棄されていた阿弥陀三尊像を本田善光が拾い上げ、信濃に持ち帰ってまつったのが善光寺の始まりとされています。

 善光寺如来の縁起が、善光寺の成り立ちやその信仰の原点としている百済仏ですが、実は妙高山信仰の中心である関山の地にも飛鳥時代の百済仏が伝来しています。

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妙高山麓の関山に伝わる百済仏(関山神社所蔵)

 

関山に伝来した百済仏(文化財名称は銅造菩薩立像)は聖観音菩薩像で、聖観音菩薩は妙高山頂に阿弥陀三尊がまつられる前の古い時代の本尊であったとする説もあります。この仏像は、江戸時代が終わるまで関山権現(現関山神社)の本殿内でまつられていた御宮の本尊であり、毎年旧暦の6月17日と18日にはその供養のために祭礼が行われていました。これが現在の関山神社火祭りです。

関山神社に伝来するこの観音菩薩像は、その形状や使われている銅の成分から6世紀後半ころに百済で制作されたと考えられています。善光寺の信仰と妙高山・関山の信仰は、仏教伝来期(飛鳥時代)の百済仏という共通点でもつながっています。

 

善光寺人気と女性の関所抜け

善光寺は古くから女性を救済する寺として人気があり、旅の時代ともいわれる江戸時代になると、気軽に善光寺参詣に出かける女性が急増しました。その結果、女性の取り調べを専門とする越後国と信濃国の境界に置かれた関川関所(妙高市)では、厳しい取り調べにおびえる女性たちを対象に、近隣の宿場で生活する人々が関所抜け(関所破り=死刑にもなる重罪)を有料で手引きするようになりました。

近年、関川関所跡では、江戸時代に実際に使われていた関所抜けの道(通称「犬くぐり道」)が復元され、関川関所を抜けて善光寺参りをした当時の女性たちと同じ冒険が体験できるようになりました。

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復元された関川関所の番所(関川関所道の歴史館に併設)

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復元された関所抜けの道(通称「犬くぐり道」)

 

 

妙高山信仰の歴史を動画で紹介

妙高山信仰と善光寺信仰・戸隠山信仰との歴史的関係を動画で紹介しています。

妙高山信仰のシンボル景観となる「旧関山宝蔵院庭園」の修復整備動画と合わせてご覧ください。

 

 

 

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