妙高市には古墳時代や戦国時代の遺跡が数多く残されています。ここでは、「斐太遺跡」「観音平・天神堂古墳群」「鮫ヶ尾城跡」について、遺跡の概要やこれまでの調査の結果などを詳しくご紹介します。
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編集:妙高市教育委員会生涯学習課
観音平・天神堂古墳群
古墳群の遠景
遺跡の概要
[1]所在地: 妙高市大字宮内・雪森
[2]指定種別: 国指定史跡
[3]指定年月日: 昭和52年7月16日、平成17年3月2日追加指定
[4]指定面積: 101,160平方メートル(公有地63,338平方メートル、民有地37,822平方メートル)
斐太遺跡は、弥生時代後期後半(3世紀、今から約1800年前)に存在した集落遺跡です。100,000平方メートルを超える低丘陵上に200軒を上回る竪穴建物跡を有する大規模な遺跡であり、既知の弥生時代後期の集落遺跡としては東北日本最大規模を誇ります。
弥生時代後期後半は中国の史書に「倭国大乱」と記された戦乱の時代で、当時の倭国(当時の日本列島の呼称)の女王として卑弥呼が登場する時代です。この上越地方にも戦火に備えた山城のような集落が数多く出現しましたが、その最大規模のものが斐太遺跡です。
これまでの発掘調査により、大規模な環壕(集落を囲う防御用の空壕)の跡が見つかっています。
斐太遺跡は、後世の人為的な破壊を免れて集落全域がほぼ無傷で保存されている上に、腐葉土が堆積しにくいという特殊な気候風土によって、日本で唯一、約1800年前の弥生時代の遺構を半埋没状態で肉眼観察することができます。
<観音平・天神堂古墳群の位置図>
<観音平古墳群の全体図>
<天神堂古墳群の全体図>
現況
古墳群は斐太遺跡によって南北に分断されており、深い沢を隔てた北側の洪積台地上に観音平古墳群、南側の洪積台地上に天神堂古墳群がそれぞれ立地しています。いずれの地形も斐太遺跡の地形とよく似ており、ふもとには緩やかな傾斜面が広がり、その奥部は山稜の鋭い細尾根となっています。両古墳群とも最高所の古墳は標高100mを超える眺望の優れた場所に築造されていますが、古墳の多くはその裾野に広がる緩傾斜面に立地し、典型的な群集墳の景観を形成しています。
史跡指定地の大部分は山林で、古墳の遺存状態は大変良好ですが、天神堂古墳群については昭和51年の分布調査の時点で、昭和5年の新潟県調査で確認された古墳の幾つかが宅地化、畑地化、林道改修、地崩れ、盗掘等の諸因によって既に全壊または半壊していたと報告されています。
観音平古墳群については後世に滅失したものはほとんどなく、盗掘痕をもつものが1基、開墾等によって削平されたような場所が1~2箇所存在する程度に留まっています。
両古墳群では公有地を中心に毎年定期的な下草刈りを行っており、近年はカタクリの群生地としても注目を集めています。
観音平古墳群のカタクリの群生(4月初旬)
調査と整備の経過
大正13年の分布図作成を端緒として、昭和34、35年に新潟県教育委員会、昭和51年に市教育委員会がそれぞれ分布・測量調査を追加実施し、古墳群の全体像を明らかにしてきました。その間、観音平古墳群では発掘調査が実施されませんでしたが、天神堂古墳群では大正14年に2基、昭和34年にも2基の古墳が発掘調査され、木棺直葬(穴を掘って木棺を埋葬し、そのまま埋め戻したもの)を主体とする初期群集墳であることが明らかになりました。
その後、20年以上もの間調査の機会がありませんでしたが、平成11年に観音平古墳群で前方後円墳の候補が見つかったことを受けて、平成13・14年度に新潟大学・富山大学との合同調査を実施した結果、観音平古墳群の最高所に位置する1号墳と隣接する4号墳が古墳時代前期まで遡りうる前方後円墳であることが判明しました。
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観音平1号墳より頸城平野を望む | 天神堂古墳群の裾野に広がる群集墳 |
整備に関しては、昭和53年に「観音平・天神堂古墳群」として国史跡への昇格を果たし、順次公有化を進める中で保存を図ってきましたが、環境整備以外の本格的な整備には至らず、古墳群の入り口に国史跡の標柱や簡易な案内板が設置されているのみの状態です。見学者のための遊歩道や案内板などの整備が今後の課題です。
<観音平・天神堂古墳群の調査と整備の経過>
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観音平古墳群の調査成果
[1]観音平1号墳
古墳群の最高所に位置する県内ではたいへん珍しい帆立貝形前方後円墳です。全長約26.8m、後円部径約21.4m×約20.0m、前方部長約5.4m、前方部幅約4.8m、くびれ部幅約4.5mであり、後円部と前方部の比高は約2.7mとなっています。「帆立貝」の名のとおり、前方部が極めて小規模な点に形態の特徴があり(後円部長と前方部長の比率は約4時1分)、古墳時代前期でも初頭(3世紀後半)に築造された可能性があります。
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観音平1号墳・3号墳 トレンチ調査の様子 | 観音平1号墳 前方部調査の様子 |
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観音平1号墳 前方部調査の様子 | 観音平1号墳 修景伐採後の様子 |
<観音平1号墳の復原図>
[2]観音平4号墳
1号墳に隣接する全長約33.6mの前方後円墳です。後円部径約19.0m×約23.0m、前方部長約11.6m、前方部幅約7.0m、くびれ部幅約5.0mであり、後円部と前方部の比高は約1.6m、後円部長と前方部長の比率は約2時1分となっています。後円部が楕円形である点や、前方部が小規模である点などは1号墳と共通しており、北陸地方の前方後円墳の中では古式の特徴を備えています。トレンチ調査の際に遺物が出土しませんでしたが、1号墳と同様に古墳時代初頭まで遡る可能性をもつ前方後円墳です。
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観音平4号墳 トレンチ調査の様子 | 観音平4号墳 修景伐採後の様子(奥は1号墳) |
<観音平4号墳の復原図>
天神堂古墳群の調査成果
昭和51年の分布調査で118基の古墳が確認されましたが、その後の調査で既に滅失したもの、古墳ではないものが明らかになり、現在は106基の古墳を数えることができます。近年の分布調査では、観音平古墳群と同様の弥生墳丘墓の可能性をもつ低い墳丘や斐太遺跡に通有な竪穴の埋没痕が多数見つかっています。
過去に発掘調査が実施された古墳は以下の4基です。なお、天神堂古墳群では記録保存が図られたこれらの古墳以外にも発掘(掘削)されたものが幾つかあり、出土地不明の出土品が斐太歴史民俗資料館に展示されています。
[1]天神堂90号墳
大正14年に発掘調査された古墳です。東西約20.0m×南北約16.4mの円墳であり、墳頂部の約0.3m下に存在した主体部の底には約3.9m×約1.8mの範囲で木炭粉層と砂層が敷かれ、その上に石郭状に石が並べられていたという報告があります。主体部と思しき場所からは直刀1本、刀子1本、白銅四乳鏡1面、鉄鏃(てつぞく)23本、朱塊(しゅかい)などが出土しました。
[2]天神堂41号墳(旧9号墳)
同じく大正時代に発掘調査された古墳です。東西約15.2m、南北約13.9mの円墳で、既に盗掘された古墳でしたが、墳頂部の約0.97m下に砂と木炭粉を主成分とする攪乱層(かくらんそう)が存在し、その周辺から勾玉や直刀などが出土しました。
[3]天神堂6号墳(旧46号墳)
昭和32年に東京大学によって発掘調査された古墳です。支稜の頂部に位置する当古墳群で最大規模の円墳であり、直径は20mを上回ります。墳頂部の表土下約0.3mの地点から土師器片が出土し、その下をさらに約0.2m掘り下げたところで鉄剣の破片が出土したと報告されています。主体部の底面は粘土層で整地されていたようですが、石室などの埋葬施設は確認されませんでした。
[4]天神堂79号墳(旧61号墳)
東京大学が発掘したもう1基の古墳です。直径約15mの円墳で、墳頂部の東の端を0.4mほど掘り下げたところから土師器(はじき)の高坏(たかつき)片や壺片が出土しました。
天神堂古墳群出土遺物(斐太歴史民俗資料館蔵)