本文へ
Foreign Language 文字サイズ[小][標準][大] ふりがなをつける 読み上げ ブラウザガイド
ホーム市政情報市役所・公共施設文化施設斐太歴史の里:鮫ヶ尾城跡
ホーム自然・環境公園公園斐太歴史の里:鮫ヶ尾城跡

斐太歴史の里:鮫ヶ尾城跡

フラッグ

 妙高市には古墳時代や戦国時代の遺跡が数多く残されています。ここでは、「斐太遺跡」「観音平・天神堂古墳群」「鮫ヶ尾城跡」について、遺跡の概要やこれまでの調査の結果などを詳しくご紹介します。

※このページを印刷するかたへ…プリンターによっては必要以上に多く印刷されることがありますので、必ず印刷プレビューを確認のうえ、ページ数を指定して印刷を行ってください

編集:妙高市教育委員会生涯学習課
 

鮫ヶ尾城跡

 

1-sekihi.JPG
初春の晴れた日の鮫ヶ尾城碑

概要

[1]所在地: 妙高市大字宮内・籠町・雪森 

[2]指定種別: 国指定史跡

[3]指定年月日: 平成20年7月28日

[4]指定面積:224,128平方メートル

[5]築城時期:16世紀

[6]廃城時期:天正7年(1579)

[7]城将(城主/城代):堀江宗親(ほりえむねちか)

[8]その他:続日本100名城(133番)

[指定説明]

 鮫ヶ尾城跡は、上杉謙信の死去に伴う御館の乱(おたてのらん)(天正7年・1579)の際に、上杉景勝が上杉景虎を追い詰め、景虎を自害させた山城です。当時の城将として景虎方であった堀江宗親の名があり、江戸時代の歴史書には城に火が放たれたとの記述があります。

 鮫ヶ尾城は、遺構が造作された部分で約10万㎡、天険の要害を構成する自然地形まで含めると約22万㎡にも及ぶ越後国内屈指の大規模な山城です。尾根の主稜線に大規模な堀切や曲輪が並べられ、中心部を取り囲むように多くの切岸が存在します。山城の正面口(大手)は南側の尾根筋にあり、左右に屈折しながら進む登城道や城門が存在したとみられる虎口が確認できます。後世の土地開発によって大きく改変された場所はほとんどなく、当時の遺構がほぼ完全な形で保存されています。

 発掘調査では、トレンチ調査したすべての地点から被熱した遺物が出土し、戦火によって廃城になったことが裏付けられました。遺構や遺物の状況から、火事場整理を経て再利用された可能性がないと判断されたため、天正7年当時の姿を忠実に留めていると考えられます。16世紀後半の遺物が主体であったことから、武田信玄の北信濃への侵攻によって国境付近の軍事的緊張が高まり、鮫ヶ尾城の防備が強化されたと推測されます。

 鮫ヶ尾城は、川中島合戦を通して北信濃に勢力を拡大してきた武田信玄の動きに備えた上杉方の拠点山城の一つであり、謙信没後の跡目争いである御館の乱では、勝敗が決する重要な舞台となりました。城歴が比較的明らかなうえに遺構の残存状態が極めて良好であることから、越後の戦国史や信越国境に面した当地の歴史的重要性を雄弁に物語る貴重な文化財として保存整備されています。

 

<鮫ヶ尾城跡の位置図>

位置図

1-myokosan.jpg
冬の鮫ヶ尾城跡(手前)と妙高山

 

縄張りの特徴と登城道

 鮫ヶ尾城跡の縄張り(全体構造)については、城域を大きく3地区に区分してその特徴を整理しています。

【北遺構群】 山頂部周辺を大規模に加工した山城の中心地区。尾根筋に広い曲輪が並べられ、その周囲を比高差の大きい堀切や切岸で取り囲んでいます。

【南遺構群】 山頂から南に延びる尾根を加工した地区。北遺構群と一体性や連続性があり、その接続部に明確な虎口が存在します。曲輪や切岸が、尾根の先端部まで自然地形をほとんど残すことなく造作されています。

【東遺構群】 山頂から東に長く延びる尾根を加工した地区。尾根が細く、尾根筋を断ち切る堀切はたくさんありますが、広い曲輪はほとんど造られていません。山城の遺構は尾根の中腹で途切れ、尾根の先端部までは到達していません。

縄張図 (PDF 1.07MB)

 

 ふもとから山頂曲輪(通称本丸跡)に至る登城道(遊歩道)には、山城の北斜面を行く「北登城道」と、山頂につながる尾根筋を行く「南登城道」と「東登城道」の3つが存在します。

【北登城道】 深い沢を超えて山頂尾根の北側斜面を行く登城道。途中までは杉林が広がり、山頂部の真下まで近づくと切岸が現れます。公図上の赤道であり、擬木階段を用いた登城道が整備されています。 

【南登城道】 山川が形成した谷部から南側の尾根を行く登城道。急勾配の尾根筋を中心に、左右に折れながら進む通路状の遺構(当時の道方)が良好に残っています。現在はこの通称道曲輪の脇に造られた里道が登城道として使われています。

【東登城道】 緩やかな勾配で長く延びる東側の尾根を行く登城道。尾根筋に往来の妨げとなる堀切が多く造られているため、現在は尾根の南側斜面を開削してできた里道が登城道になっています。

登城道図 (PDF 727KB)

 

文献史料にみる鮫ヶ尾城

 鮫ヶ尾城に関する記録はほとんどなく、唯一とも呼べる史料が天正7年3月19日付けや同年同月24日付けの上杉景勝書状です。それぞれわずか数条の記述ですが、当時の城将(城主または城代)が堀江宗親であったこと、御館の乱の際に敗走してきた景虎がわずかな手勢で鮫ヶ尾城に立て籠もったこと、堀江氏が景勝から寝返るように催促されていたこと、景虎が最後に自害したこと等が記されています。この堀江宗親は謙信の旗本とみられ、天正6年5月以降、景虎方として御館周辺の攻防に主力として参加していました。

 鮫ヶ尾城の築城時期に関する明確な記録はありませんが、武田軍による信越国境への侵攻が脅威となり、近隣の春日山城や飯山城等の改修や増築が盛んに行われた天文・永禄・元亀年間(1532~1572)頃と考える説が有力です。実際の発掘調査においても、16世紀後半の陶磁器片が数多く出土しています。

 

1-syoufukuji.JPG
ふもとの勝福寺に建つ上杉景虎像

 

調査と整備の経過

 古くから地元では城山(じょうやま)として知られていましたが、昭和38年に伊藤正一氏によって新井高校郷土史クラブが作成した縄張図が公表され(郷土乃新井第10号)、一般に広く知られるところとなりました。昭和39年には新潟県の史跡指定を受け、山頂部の一角が公有化されました。

 昭和52年度~54年度には、市教育委員会と直江津高校社会部による本格的な縄張測量が行われ、昭和53年度には通称本丸跡において東屋(あずまや)設置に伴う確認調査も実施されました。

 その後しばらくの空白期を経て、平成12年に斐太歴史の里全体の公園整備の一環で縄張り調査や発掘調査を行うことになり、平成13年度~15年度にかけて分布調査や地形・縄張測量を実施し、平成15年度~18年度の4か年で山頂部の主要な曲輪や、一部で重複する弥生墳丘墓群を対象とした確認調査を実施しました。

 

主要な曲輪の概要

[1]通称本丸跡

 本曲輪は鮫ヶ尾城跡の最高所にあり、その標高は約185メートルを測ります。築城されたときの名称はわかりませんが、山頂部の最も眺望が優れた場所に位置することから、江戸時代から「本丸」と呼ばれてきました。

 北に日本海、南に信越国境を望む景観からは、鮫ヶ尾城が高田平野の入口を固める軍事的に重要な場所であったことがわかります。この通称本丸跡からは、上杉方の拠点城郭であった春日山城(上越市)がよく見通せます。

 

1-honmaru.JPG

通称本丸跡の遠景

 

[2]通称米蔵跡

 古くから焼け米を採集することができる場所として有名な曲輪です。※国指定史跡となった現在は採集が禁止されています。

 焼け米の存在は江戸時代には広く知られており、天保12年(1841)の4月4日には、高田藩士の白石林文(しらいししげふみ)が仲間2人とともに鮫ヶ尾城跡にハイキングに訪れ、焼け米を拾って持ち帰っています(白石林文の日記より)。

 

[3]通称二ノ丸跡

 標高約175メートルの地点にあり、通称本丸跡とは約10メートの標高差があります。この曲輪は、周辺の曲輪と接続する城内道(通路)が交差する場所であるため、鮫ヶ尾城の中では特に利用度が高い重要な曲輪であったと考えられます。

 発掘調査では、広く造成された曲輪の中央で多くの柱穴とみられる掘り込みが見つかりました。これらの掘り込みは掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)の柱をすえた穴とみられ、この場所に桁行約8.6メートル、梁間約5.1メートルの作業小屋や倉庫のような建物が存在したことを示しています。

通称二ノ丸跡遺構図 (PDF 919KB)

IMG_4071.JPG

通称二ノ丸跡の調査区全景

IMG_4090.JPG

建物跡の柱穴

 この推定建物跡の内部や周辺からは、合戦に備えて集められていたとみられる投石用の「つぶて石」や16世紀後半の焼けた陶磁器の破片が数多く出土しました。

IMG_2406.JPG

つぶて石や陶磁器片の出土状況

 表面に火を受けた遺物が多くみられることや、大乱後に建物を建て替えて再利用した痕跡が認められなかったことから、御館の乱の戦火によって城が焼け落ち、そのまま廃城になったことが裏付けられました。

 

[4]通称三ノ丸跡

 全国的に有名になった「炭化おにぎり」が出土した曲輪です。

 下段にある井戸の脇からスロープ状の登り道が付いているため、曲輪に上がったところにあるくぼみが虎口(こぐち=出入口)の痕跡であると考えられます。虎口跡の正面にはしっかりとした土塁が存在します。鮫ヶ尾城跡では、こうした虎口と土塁がセットで存在する箇所がいくつか存在しており、この土塁については、虎口を突破した敵兵を攻撃する鉄砲隊が身を隠すために利用されたと考えられています。

通称三ノ丸跡遺構図 (PDF 851KB)

IMG_4262.JPG

通称三ノ丸跡の調査区全景

IMG_3899.JPG

炭化おにぎりの出土状況

[5]虎口曲輪

 虎口とは出入口のことで、この曲輪は鮫ヶ尾城跡の正面口とされる南登城道において、山城中心部への入口を固める重要な場所に位置しています。

 正面右手の切岸と同左手の土塁に挟まれた開口部には、守りの要となる城門が存在したと推測されます。城門から入った内部は桝形になっており、その真正面には土塁が存在します。城内道は土塁の手前で大きくU字形に曲がり、井戸の方に向かっていきます。

虎口曲輪写真 (PDF 356KB)

 

 

 

 

カテゴリー