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斐太歴史の里:鮫ヶ尾城跡

 妙高市には古墳時代や戦国時代の遺跡が数多く残されています。ここでは、「斐太遺跡」「観音平・天神堂古墳群」「鮫ヶ尾城跡」について、遺跡の概要やこれまでの調査の結果などを詳しくご紹介します。

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編集:妙高市教育委員会生涯学習課
(電話 0255-74-0035)

鮫ヶ尾城跡

鮫ヶ尾城跡遠景
初夏の鮫ヶ尾城跡遠景

概要

[1]所在地: 妙高市大字宮内・籠町・雪森   
[2]指定種別: 国指定史跡
[3]指定年月日: 平成20年7月28日
[4]指定面積: 224.128平方メートル

 山頂の標高が185mの低丘陵地を利用した山城であり、山城の北側と西側には深い沢、南側には河川が存在し、天然の要害と呼ぶにふさわしい地勢となっています。

 鮫ヶ尾城は、16世紀の後半に春日山城の前衛として普請された頸城地方最大の支城といわれています。越後を二分する大戦乱に発展した御館の乱の終焉の地でもあり、同盟の証として越後入りし、謙信の後継者と目されながらも最後は近臣の謀反によって非業の死を遂げた三郎景虎が自刃した場所としても知られています。御館の乱は、北日本屈指の大国であった越後国内のみならず、日本列島の勢力構図をも一変させうる戦乱でした。こうした大乱の由緒地であり、その存在を示す良好な歴史資料として高く評価できるものです。

 また、遺構を見ると、御館の乱で廃城になり、城郭構造の転換期とされる豊織期に増築・改変がなされなかったことから、信越国境の軍事的緊張が極度に高まった天文・永禄・元亀年間における山城構造を知るための好例とされています。上杉謙信・武田信玄の両雄を歴史の表舞台に引き出した川中島の合戦があまりにも有名ですが、そうした信越国境の軍事的緊張が高まった時期の姿を忠実に留めているという点で大変貴重な山城跡です。

 三郎景虎は北条氏康の子息として数奇な人生を送った人物という評価に留まらず、「関東一の美青年」と記す史料の存在が実像を脚色し、義経伝説にも似た悲劇的な内容で語られることが少なくありません。こうした物語性も鮫ヶ尾城跡の横顔として欠かせないものといえるでしょう。

<鮫ヶ尾城跡の位置図>
位置図

鮫ヶ尾城跡遠景
晩秋の鮫ヶ尾城跡遠景

<鮫ヶ尾城跡 全体図(縄張図)>
全体図

現況

 200,000平方メートルを超える指定地の内、遺構自体の広がりは120,000平方メートルにも及びます。

 山頂曲輪を基点に三方に分岐する尾根のうち、東へ向けて長く、緩やかに下降していく稜線上を東登城道、南へ向けて急勾配で下降する尾根筋を南登城道と呼んでおり、現在でも、それぞれにおいて道方の痕跡を断続的に確認することができます。現在は斐太歴史の里総合案内所を出発する後世の里道が遊歩道整備され、最も一般的な登城道として利用されています。

 各遺構の残存状態は良好ですが、法面の崩落をはじめとする経年変化や散策路を中心とした土の流出等、遺構の保存に関する課題が少なくありません。散策道の整備や案内板などの設置を進めているところです。

 近年はカタクリやササユリをはじめとする山野草の自生地、ギフチョウをはじめとする多様な昆虫の棲息地としても人気が高まっています。 *ギフチョウは妙高市の天然記念物として採集を禁じています

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文献史料にみる鮫ヶ尾城

 鮫ヶ尾城に関する記録はほとんどなく、唯一とも呼べる史料が天正7年3月19日付けや同年同月24日付けの上杉景勝書状です。それぞれわずか数条の記載ですが、当時の城主が堀江宗親であったことや、御館の乱の際に敗走してきた景虎が関東出奔を前に鮫ヶ尾城に立て籠もったが、堀江氏が景勝に内応したことによって落城し、山中にて自刃したことなどを知ることができます。堀江宗親は天正6年5月以降の御館周辺の攻防にも主力として参加した景虎方の有力武将でした。

 鮫ヶ尾城の築城時期に関する記録はありませんが、信越国境への侵攻が脅威となり、春日山城や飯山城等の領内の主要な城館の増改築が盛んに行われた天文・永禄・元亀年間(1532~1572)頃とする説が有力です。発掘調査でも16世紀後半の陶磁器片が数多く出土しました。

 また、近年の通称二ノ丸や三ノ丸を対象とした発掘調査では、天正七年の大火落城の記録を裏づける物証となる、被熱した陶磁器片やおにぎり形をした炭化米の塊などが多数出土しました。

焼米の出土地
古くから焼米の出土地として知られる通称米倉跡

調査と整備の経過

 古くから地元では城山(じょうやま)として知られていましたが、昭和38年に伊藤正一氏によって新井高校郷土史クラブが作成した縄張図が公表され(郷土乃新井第10号)、一般に広く知られるところとなりました。昭和39年には新潟県の史跡指定を受け、山頂部の一角が公有化されました。

 昭和52年度~54年度には、文化財調査審議会の活動の一環で市教育委員会と直江津高校社会部による本格的な縄張測量が行われ、昭和53年度には通称本丸跡において東屋(あずまや)設置に伴う確認調査も実施されました。

 その後しばらくの空白期を経て、平成12年にようやく斐太歴史の里の一体的な公園整備とそのための範囲・内容確認を主眼に置いた調査の機会が訪れ、鮫ヶ尾城跡についても国史跡への昇格を目標とした確認調査を実施していくことになりました。平成13年度~15年度にかけて分布調査や地形・縄張測量を実施し、平成15年度~18年度の4カ年で山頂部の主要な曲輪や、一部で重複する弥生墳丘墓群を対象とした確認調査を実施しました。

 現在、縄張調査の成果を受けて、山城の遺構を山頂から重層的に曲輪が取り巻く北遺構群(N群)とその南側に接する正面口となる南遺構群(S群)、伝大手道沿線の東へ延びる細尾根上に普請された東遺構群(E群)に三区分し、それらの略号を曲輪の標高値の前に冠して個々の曲輪を呼称することにしています(鮫ヶ尾城跡 全体図(縄張図)参照)。

調査成果

 平成15年度に最新の縄張図が完成したことを受けて、同年度から平成18年度までの4カ年にわたって広い平坦面を有する主要曲輪の確認調査を実施し、普請の時期や遺構の配置等に関する情報収集を行いました。

 出土した遺物は16世紀後半の陶磁器片が主体であり、被熱したものが一定量存在する上に、おにぎり形の塊として出土した炭化米ブロックなども存在し、御館の乱の戦火によって落城したとする史実と符合する物証を多く確認することができました。

[1]N175曲輪(通称二ノ丸跡)

 山頂曲輪(通称本丸跡)の直下に位置する大規模な曲輪です。発掘調査の結果、曲輪の中央部に東西方向に主軸をとる4間×2間(約9m×5.2m)の掘立柱建物跡が存在し、その建物跡の南側には手頃な円礫の集中する前庭部が存在しました。この集積については、戦闘用の飛礫石を集積していた痕跡の可能性があります。被熱した遺物が一定量出土したため、ここまで確実に戦火が及んだことが判りました。

調査区全景 発掘調査の様子
通称二ノ丸跡 調査区全景 通称二ノ丸跡 発掘調査の様子
遺構の検出状況 川原石の集積遺構
通称二ノ丸跡 遺構の検出状況 通称二ノ丸跡 川原石の集積遺構

[2]N167曲輪(通称三ノ丸跡)

 通称三ノ丸跡と呼ばれてきた鮫ヶ尾城跡の中では最大規模の曲輪であり、井戸曲輪の上段に位置しています。柱穴を中心とした遺構は曲輪の入り口に当たる北側に集中しており、曲輪のほぼ中央には長径約2.3mの大型方形遺構が存在する程度でした。遺物には被熱したものが多く、溝状の遺構の周辺からはおにぎり形をした炭化米ブロックが4点出土しました。

調査区全景 堀切の断面 遺構の検出状況
通称三ノ丸跡 調査区全景 通称三ノ丸跡 堀切の断面(断面箱形) 通称三ノ丸跡 遺構の検出状況
かわらけの出土状 おにぎり形炭化米ブロックの出土状況
通称三ノ丸跡 かわらけの出土状 通称三ノ丸跡 おにぎり形炭化米ブロックの出土状況
このページに関するお問い合わせ
妙高市教育委員会 生涯学習課 文化振興係
〒944-8686 新潟県妙高市栄町5-1
Tel0255-74-0035